有限会社タック精工

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近隣スポット情報Spot Information

スポットをご紹介します

弊社がある岡山市北区門前は岡山市からおよそ15km西北西に位置し、周りには歴史的建造物、場所などが多く点在する所です。
社長 鈴木のおすすめスポットをご紹介いたします。
古墳時代から江戸時代までの数多くの歴史的なスポットと伝説が入り交じるとても趣のある土地柄です。

備中高松城址

備中高松城址

天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を水で包囲しました。 水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起き、その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返したと言う、有名な「秀吉の水攻め」は、弊社の裏を流れる足守川をせき止め、高松城を水で包囲したとされています。残念ながら高松城は現存しませんが、高松城址という名の公園が残っています。
写真提供:岡山県観光連盟

最上稲荷

最上稲荷

日本最大級の鳥居で知られる岡山最上稲荷は、正式には日蓮宗の寺で、正式名称は、最上稲荷山妙教寺。所在地が岡山市高松地区であることから高松稲荷と称されることもあります。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏、祈祷本尊は最上位経王大菩薩[1](稲荷大明神)。 歴史のある寺院であるが、第二次大戦後一時日蓮宗より独立(昭和29年(1954年)7月24日)し、最上稲荷教総本山妙教寺となっていましたが平成21年(2009年)7月に日蓮宗に復帰しました。 日本三大稲荷には諸説ありますが岡山県周辺域においては伏見・豊川に並ぶ日本三大稲荷の一つであると認識されています。本堂に向かう参道は「古びた感」が否めませんが、それもまた昔ながらの風情とたたずまいだと楽しむ方も大勢おられます。
写真提供:岡山県観光連盟

吉備津神社・吉備津彦神社

吉備津神社
吉備津神社

パワースポットとして有名なこの2つの神社はその名の示す通り 桃太郎伝説のモチーフとなったとされる第7代孝霊天皇の子、吉備津彦の命の由来する神社です。
吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られます。温羅は鬼ノ城(総社市)に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。
吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する吉備津神社の鳴釜神事は上田秋成の『雨月物語』中の「吉備津の釜」においても記されている。鬼ノ城(総社市鬼城山)に住む温羅と呼ばれる鬼めがけて吉備津彦神社から吉備津彦命が放った矢が鬼の放った矢とぶつかり、2本の矢が落ちたところが吉備津神社の山門前であるとか、目を射抜かれた鬼から流れた血が、今も現存する血吸川に大量に流れたとか、吉備津彦の放った矢を鬼が喰ったとか(矢喰いの岩)様々な伝説があり、それらを歴史とともに辿るのもまた楽しい場所です。
この温羅という鬼伝説もまた、鉄の技術を運んできた渡来人であったのではないかとされていたり、近年岡山では鬼のような化粧を施し踊り歩く「温羅じゃ祭り」が盛況をきわめており、各地から観光客が訪れる有名なお祭りとなりつつあります。
写真提供:岡山県観光連盟

造山古墳

造山古墳

岡山市西部、足守川右岸において丘陵を切断して築造された巨大前方後円墳。
墳丘長は約350メートルで、大仙陵古墳(大阪府堺市、約486メートル)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、約420メートル)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、約360メートル)に次ぐ全国第4位の規模。周囲には榊山古墳(造山第1号墳)や千足装飾古墳(造山第5号墳)など6基の陪塚があり、現在に至るまで本格的な学術調査は行われておらず、内部は未発掘である。特徴として、墳丘の長さに対して後円部の割合が大きいことが挙げられる。 大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解がある。天皇陵に比定されている上位3古墳をはじめ近畿地方の巨大古墳が宮内庁により国民はもちろん学者・専門家も内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入り出来る古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。
なお、総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいる。
写真提供:岡山県観光連盟

備中国分寺五重塔

備中国分寺五重塔

五重塔は、高さ34.32メートル。南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50メートル。塔跡が残る)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年-1847年)に完成した。江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔である。当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされ、3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体である。この塔は国の重要文化財に指定されている。
写真提供:岡山県観光連盟